意識高くないブログ

アラサーに差し掛かった女による、もう色々書く、あふれ出る感情とか勉強とか仕事とか病気のことなど

What's the point?

昨日のカウンセリングで、気を遣いすぎているという話をした。

でも、それって、結局自分で自分を受け入れられてないからしているんだと思う。突き放されるのが怖いから、嫌われたくないから、気を遣うんだと思う。

先生を含めて周りはそれを知っているのか知らないのかは分からないけど。

だから、マッチングアプリで知り合った男性に、

「ラインのやり取りは頻繫にされる方ですか」

なんて聞いてしまう。

頻繫にして嫌われたくないから、好きでもない人ないのに。

本来、マッチングアプリなんて、そういう諸々の煩わしさが面倒臭いから使っている人も多いと思うから、そもそも、私の性格とマッチしていない。

 

大学生の頃は、アルバイト先の同期で、同い年とは思えないくらい気を遣える男子がいて、みんなに好かれていたから、気を遣えない自分が嫌だった。気を遣えれば、周りから愛されると勘違いをした。

新卒で入った会社でも、営業だったから、「気遣いこそ命」みたいなところがあって、気遣いができない自分は非難の対象者だった。

 

それなのに、違うらしい、なにかが

 

私のせいじゃないのに、私だけが損をするシステムになっている、私がそのシステムを作り上げているのだが。そのシステムを壊した方が良いことなんて知っている、できるならそうしたい。

で、そのシステムを壊せないのは私が壊さないからで、だから結局私のせいになる、私のせいじゃないのに、大元は。

それが意味が分からない、私がこうなったのは、私のせいじゃないのに、私のせいなんだ。

 

平日は一瞬たりとも気が抜けなくて、化けの皮が剝がれないように、やっとの思いで掴んだ場所を手放したくなくて、でも、100%全肯定できる場所かと言えばそうじゃなくて(単調すぎるから)

休日はその分押し寄せてくる矛盾と向き合わなくてはいけなくて、でも平日に化けの皮が剝がれないように、やらなきゃいけないこともあって

 

結局のところ、将来後悔しないようにって思っていることって、将来自分が後悔することを前提で動いていることを意味している。

今、過去を悔やんでいるから、未来にそうなりたくないからって思っているけれど、それも自分のことを受け入れられてないから、過去の自分は今からしたら「後輩」だし、至らないことがあるのは当たり前なのに

でも、同年代で、自分ができなかったことが出来ていた人がいるってことは、自分ができなかったのは自分の力不足で、気を付けていればできたのではないかと思ってしまう。

他人を見て自分の力不足に、努力不足に嘆き悲しむことはもううんざりで、負け犬の遠吠えをする自分はなんて醜いんだろうと思っている。

そんな自分になりたくなくて、嫌なこともやるようにしている。

勉強だって、ランニングだって、恋愛だって、やらなくて満たされるならやりたくない、だらだら生きていたい。そこそこで満たされたい。

私が本当にやりたくてやっていることってなんだろう?

趣味とか言ってる読書も映画鑑賞も全部違う気がする。

こんなにも満たされた環境で過ごしているのに感じてしまう空虚さとは、創られた自分でいなきゃいけないという空虚さかもしれない。

でも、今更、本当の自分なんて分からなくなってしまった

 

結局、自分をいくらだまして頑張っても、他人は涼しい顔で同じ土俵にいるから、私はいつまでも満たされない(私が死に物狂いでここまで来たのに、周りはそうじゃないんだろうなあと思ってしまうから、他人と繋がれないし、繋がりたくないのかも)

でも、人の苦しみなんて人それぞれだから、同じ土俵で比べるのが間違っている。

(難病の子供がかわいそうねだとか、難民の子供がかわいそうねだとかいうのに目を向けていられない、多分、同じ土俵で皆は考えていないから言える、かわいそうねって言いつつ、自分とは関係ないと思っている。私はすぐ自分対相手で考える。やらない善よりやる偽善が賛美されているように、関係ないって思っているけど、かわいそうねって言える心の余裕が私にはない)

 

白いカーテンから漏れるぼんやりとした白い光の中で、私は今日も余計なことに頭を使っている。(思考が先行し過ぎているとついに先生にも言われた。)

 

「かわいそうさん」でいることは仕方ないので、自分の中にこっそりしまっておこうと思う、もう必要以上に自分の感情を外に出すのはやめようと思う。

他人に自分をアクセサリーみたいに見せつけるのはやめる、SNSとかね。(インスタのストーリーとかで。)