対岸の彼女
村上春樹のエッセイ、『一人称単数』を読んだあと、なかなか次の本を決められず、アマゾンをうろついていたのだけど、なんとか次に辿り着けた。
実は一度本屋でこの本を見つけたことがあって、でもその時は、一瞥して学園ものかと思って買うのを止めた。
だけど、単純な学園ものではなくて、二人の女性の現在と過去を行ったり来たりする描写だったことがわかって、読んでみて安心した。
学園ものは、最近避けている。それこそ学生時代はよく読んでいたけど、大人になってからは、物語のようにいかなかった過去が強調されて辛いからかもしれない。ただ単純に過去を思い出したくないからかもしれない。
なぜか最近は、女性作家の女性性(ジェンダー)を前面に出したものを手に取りがちだ。(学生時代は男性作家のミステリーばかり読んでいたのに)
チョ・ナムジュの『82年生まれ、キム・ジヨン』や、川上未映子の『夏物語』もそうだった。
フェミニストなわけではない。ただ、男性に嫌悪感があるのは事実だ。
幼い頃から、母親は父親を悪く言っていた。父親も母親を悪く言っていた。目に見える暴力があるわけではない。母親にも悪いところはあるが、父親は典型的な昭和気質な亭主関白で、自営業をしているから、世間の他の家庭を知らないのだろう。今の言葉で言えば「モラハラ」、心理士のN先生の言葉で言えば、ハラスメント的な人だ。
大人になった私から見れば、どちらも神経症気質で、発達障害ももしかすると入っているのではないかと思う。その悪しき血を私は受け継いでしまっていると思う。事実母親はうつを患っている。(だから子供が欲しくないのもある)
二人姉妹の長女で、中高時代を女子校で育ち、大学は共学だが文系で女子が大半を占める学部、サークル活動も盛んでない学校だったから、学生時代は女性に囲まれて育った。
女性の嫌なところを知っていたから、将来は女性ばかりの職場は嫌だと思った。たまに垣間見る男性の世界が物珍しく、良く見えたのかもしれない。
だから、新卒で入った会社も、今の会社も男性ばかりのところを選んだ。(意識的ではないが、恐らく無意識に選んでいたのだと思う)
でも、幼いころの刷り込みか、慣れていないからか、長く過ごして嫌なところが目に付くようになってきたからか、「これだから男の人は」ということが増えた。
恋愛なんてするようになってからは、ますますそう思うようになってしまって、まともに付き合うことができずにいる。
ここ最近、婦人科やカウンセリングに通うようになって、女性と関わることが増えた。変な気を遣わずに済むし、何よりこの世の中にまともな大人がいるんだと思って安心する。(表面上そう見えているだけかもしれない、彼女たちは私がお客さんだからそういう対応をするだけかもしれない。)
(その面に関しては、新しい職場の上長が女性だし、事務職なのできっと女性が多いのだろう。そこでまた改めて感じることがあるかもしれない。)
話がかなり逸れてしまった。
なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。
消えてしまいたい日々、それでも消えることも死ぬこともできない日々、これから起こる全てのことを思い起こしてうんざりしてしまう日々
それでも私は生きている、共産主義に亡命したり、脳幹にコンピューター、静脈に鎮静剤を繋いだりしながら生きている
何食べよう、いつランニングに行こう、役所の手続きを済ませて、溜まっているラインを返して、病院に行って
次はあの人からお薦めされた、朝井リョウの『生欲』
人から薦められたものは受け入れないはずだったのに。
でも今回はアマゾンを彷徨わずに辿り着けた。