意識高くないブログ

アラサーに差し掛かった女による、もう色々書く、あふれ出る感情とか勉強とか仕事とか病気のことなど

異常か正常か

「それはできないから」

そう他人から言われたのは初めてかもしれない。

常に何かを「やらなくては」いけなくて、私の頭の中はorderでいっぱい。

幼い頃から、あれをやりなさい、これをやりなさいと命令ばかりしていた親、彼らも完璧な人間ではないので、間違った子育てをしてしまうのは仕方がない、第一子の宿命として実験台になるのは仕方がない。

しかしながら、幼子の私はそんな彼らの事情がわかるはずもなく、悶々とした日々を過ごしていたのかもしれない。

両親共々気分にムラがあって、その気分の波なんて幼子に読めるはずもなく、振り回されていた気がするし、まんまとその性質を受け継いでしまった感じがする。

だから、うまくできないけど、「やらなきゃいけない」ことはたくさんあって、でもやり方がわからなかったり、力量不足だったりして、でもそれはどうして良いのかわらなくて、いつも歯痒い思いで過ごしていた記憶が学生時代の殆どを占めている。

 

大人になって、ある程度まともに物を考えられるようになって、やらなきゃいけないことをきちんとやることに躍起になって過ごしてきたのかもしれない。

きちんとできないとまた「ちゃんとやりなさい」って言われると思ってるのかもしれない。(恐ろしいことに親本人はそう言ってる自覚がないらしい)

 

けれど、臨床心理士の先生から言われた。

「それはできないから」

できないことの決めつけに普通人は、怒るだろう。悲しくなるだろう。

私は、逆に、安心した。

今までずっと親の期待や自分の期待に応えるために何かに取り組み続けてきた。時に社会人になってからはかなりその傾向が強まった。学生時代、上手く結果を出せなかった自分が大嫌いで、そんな自分を変えたかった。できないことの言い訳をやめたかった。だから、無謀とも思える目標を立てて勉強したり(そのうちの一つは医学部受験。結局費用の面で自信が持てなくてやめたけど、毎日最低6時間は勉強していた。残りの3つは叶っちゃった。英検1級、TOEIC900、全国通訳案内士)、中高大帰宅部・体育は万年5段階中3の私がランニングを2年も続けたり、やりたくもない恋愛に手を出したり。これもなんだかんだ2年続けている。

転職してからも、平日はフルタイム週5の後週3塾も続けて合間でマッチングアプリの人に返信して、週2以上はランニングして、土日は友人と会ったりマッチングアプリの人に会ったり、更にその合間に勉強したり。でも勉強は最近できていなくて、やらなきゃいけないなー。とつぶやいたところで

「それはできないですよ。そんなにやるのは無理です。やりたいこと全部やるのは誰でも無理だから。○○(私)さんだけじゃなくてみんなできないから。」

普段あまり断定的な言葉を使わない先生の比較的強い言葉に少し驚いたのと同時に、できない、やらなくていいって言われることがこんなにすっと心に入ってくるものなのか、と冷静な自分もいた。

今までずっとやらなきゃいけないことに囚われていて、檻の中に自分を飼ってだらけないか見張っていなくてはいけなかったので、他人からもう十分だと言われたことがなかったので、そう言われた瞬間を4日経った今でも毎日思い出す。多分忘れることはない。

やっと他人に認めてもらえた気がする。でも、依存しないようにしないといけないというのは常に頭の中にある。いつまで私は通うのだろう、でもいまここで止めてもまだ解決していないことはあるし、今は波に攫われていないだけだろう、と思って次の予約をした、土曜日はなかなか空きが無く次は1か月後になってしまったが。なかなか空きが無いというのもわざと間を空けて様子を見るための噓かもしれない。

 

ということをずっと文章に書き留めておきたかったのになかなか時間がとれなかった。

 

あともうひとつ書いておこうと思ったことがある。

 

先週金曜日は婦人科の受診もあり、血液検査も行ったのだが、今週になって治験コーディネーターから、「筋肉の炎症を表す数値が高く出ていたが、前日や当日に運動したり筋肉痛になったりしていなかったか」というような趣旨の連絡があった。前々日にランニングをしたかもしれないが普段と同じ距離しか走っていないし、もちろん筋肉痛もない。しかも前々日。「先生と相談した結果、湿疹もあったので近いうちに再度血液検査と診察に来てくれないか」とのこと。確かに先週診察に行った時、2週間くらい続いていた、主に太ももと腕に広がっていた湿疹というか点状出血について話して先生に診てもらったのだが、経過観察ということになっていた。

どうせどうせ乳腺の時と同じでなんもないんでしょ、と思う。そのためにまだ入って1か月なのに2週連続午前休をもらうなんて馬鹿みたい。どうせ休むならいっそのこと大したことであってほしいとすら思う。なんともなくてよかったね、じゃないぞばーか。

どうせなんともないのに、もしかすると、という可能性が頭の中に広がってしまうのが辛い。(死ぬかも。病気嫌だ。無理。ということではない。どちらかというと、病気ならどんな深刻な病気でも、ここまで来たら、あーまたか。くらいにしか思わない。むしろ不確定要素が苦手なだけ。どっちだろう気になるなあ、もやもやする~それがストレス~って感じ。遊ぶ日程を決めているときに既読無視された、もしくは確認してみる!と返事があって数日音沙汰がないラインを待ってるのと同じような感覚。)

先週に続けて休むのも嫌だったから、ダメもとで今月中でないといけないのかみたいなことを聞いたら、今週中で、との返事。逃れられない。

乳腺の時と違うのは今週中、なんて急いでいること。あの時は1か月後の診察の時にって感じだったのに。また来月半ばに行くからその時でいいじゃん~と思う。腹立たしい。どうせなにもないのに。

今までの経験上、医療従事者って患者に仕事があることを基本すっ飛ばして考えている気がする。すぐ休めって言う。大したことないのに。(医療従事者からすると多分、「大したこと」なんだと思うが。)

今までどんな病気になったって、基本うける~って思ってるので、いつもへらへらしてる。から、いつも医者に重大さを強調される。網膜剝離で手術して入院した時「交通事故で言ったら重症ですよ」って言われた。

だって面白いじゃんね、他人がなかなか経験できないことが経験できるんだよ、わくわくするじゃん。だから、どうとでもなれって感じ。どうせみんな遅かれ早かれいつか死ぬし。

別に病の苦しみなんて大したことないよ、だって病だという証明がされて、自分は病人としてふるまえばいいんだもん。私は敢えて病人っぽくふるまわないけどね。あえて元気モリモリにふるまう。そっちのほうが面白いから。めっちゃ痛いことも痛いって言わないで耐えてる。(これはわざとじゃなくて、治療=痛いものと思ってるから、我慢してしまう、気絶しかけたこともある。先生に呼び戻されたけど。普通は我慢しないらしい)

一番つらいのは名前がつかない苦しみ。これは治すのが難しい。確立された治し方がないから。そもそも他人にも言えないことが多いし、言ったところで「私もだよ~」って話変えられるだけだから(同じ苦しみを味わっているとは思えないが)。病より軽く見られるし。

 

だから、どんな病気だったとしてもどんとこいや、と思っている、けどどうせ残念ながらその面白みは味わえないと思う。どうせ前々日の運動が原因ですねで終わる気がする。点状出血も治まってきてるし。あーあ、休み損だな。だから行きたくない。余計な期待と不確定要素で脳を疲弊させないでほしい。